|
西ドイツ国内で、もはや戦う意味がなくなったアルピナが、ECTCへ本格参入することを決めるには長い時間は必要なかった。
すでに同社はBMWのセミワークス的な存在として自他ともに認められており、おなじBMWをベースにECTCを追うシュニッツァーと、西ドイツフォードやオペルが送り込むワークスマシンを相手に熱い戦いを演じた。
|
|
|
|
当時アルピナBMWのステアリングを握ったドライバーの顔ぶれもそうそうたるものであった。
N・ラウダ、J・ハント、H・シュトック、J・イクス、何らかの形でアルピナに携わったドライバーの名前を上げていくだけで、この時代のドライバー名鑑はいとも簡単に作れてしまうくらいだ。
|
|
|
|
73年はモンツァでもラウダ=アルピナが圧勝している。
珍しくホワイトボディのままだが、その後のオイルショックではまったくスポンサーが取れない状態となり、77年にはレース参戦もままならなくなってしまう。
|
|
|
|
アルピナが再びECTCを制したのは3年後の77年のことであった。しかしこの時、すでにモータースポーツの世界は一連のオイルショックによって冷え切っていた。
次々にサーキットから離れていくチームを横目に、優れた燃費効率と圧倒的な動力性能の高さでライバルを寄せつけなかったアルピナにも、転身を迫られる時が訪れたのである。
|
|
|
|
それはただ単にモータースポーツの世界が低迷を続けていたからという表面上の理由だけではなかった。
それが原因で発生したスポンサーの撤退で、もはやモータースポーツはビジネスとしてはなり得なくなったのである。
グループチャンピオンを獲得した77年を最後に、サーキットから姿を消した。
|
|
|
|
68年に初めてナンバー付きの02を持ち込んでから、ちょうど10シーズンを過ごしたサーキットに、ボーフェンジーペンは何の未練も感じなかったという。
なぜなら彼はこの時、まったく新しいアルピナの姿をすでに描いていたからである。
彼がレースシーンからの撤退と引き替えに手に入れようとしたもの。それはこれまでのBMWチューナーとしてのアルピナではなく、ドイツの自動車メーカーとして存在するアルピナの姿だったのだ。
|
|
|