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History

Racing History

1961年 サーキットまで自走してくるレーシングカー。
新社屋の設立からわずかに3年後、68年のことである。ボーフェンジーペンにはエンジニアとしての才能の他に、自他ともに認める宣伝マンとしての才能もあったようだ。
いかに環境に恵まれたチューナーとはいえ、モータースポーツに進出することは経済的に大きな負担となる。彼はコンペティションマシンの開発に資金の投入を惜しまない一方、一つの作戦を立てた。

アルピナが進出を狙ったのは、グループ2/5カテゴリーで戦われるECTC(European Championship for Touring Cars)だったが、何と彼は開発したレース車両をTUVに持ち込み、車検を受けた後ナンバープレートを取得してしまったのだ。

この年アルピナが製作したマシンは、もちろん02をベースとしていた。オレンジボディにマットブラックのボンネットワード。有力なスポンサーもなく、レーシングマシンとしては外観的におとなしい部類に入ったアルピナ・BMW2002は、それとはまったく逆にサーキットで大きな話題となった。
なにしろサーキットまでレーシングマシンを自走させてくるエントラントなど、このアルピナを除いて他にはなかったのだから。

経済上の問題から、68、69両年のシリーズを、ドイツ国内のチャンピオンシップレースに限定して活動せざるを得なかったアルピナは、その狭い活躍の場で徐々に頭角を表わしてきた。
そしてついに70年には、ドイツ国内では戦うところ敵無しという状態にまで至った。
アルピナは何とこの年ロードレース、ヒルクライム、そしてラリーというドイツの3つのツーリングカーチャンピオンシップを完全制覇してしまったのだ。

アルピナがチャンピオンシップを完全制覇できたのは、もちろん彼らが作り出すマシンの圧倒的なハイパフォーマンスに最も大きな理由があった。
アルピナが施したチューニングは、実にBMWが長い年月をかけて開発したユニットの原形を留めないほどのもの。
バルブの大径化やカムプロフィールの変更はもちろん、燃焼室形状も改良され、ピストンは新にマーレ製のものが用いられるといった具合だ。

そして何と燃料供給システムには、当時としては画期的な電子燃料噴射が採用され、インテークマニホールドからエグゾーストパイプの先端まで、オリジナルのBMW部品が残された部分は皆無に近い。

結果得られた最高出力は当時200馬力と公表されていたが、実際のレース時にはさらに高い数値が得られていたともいう。

西ドイツ国内で、もはや戦う意味がなくなったアルピナが、ECTCへ本格参入することを決めるには長い時間は必要なかった。
すでに同社はBMWのセミワークス的な存在として自他ともに認められており、おなじBMWをベースにECTCを追うシュニッツァーと、西ドイツフォードやオペルが送り込むワークスマシンを相手に熱い戦いを演じた。

当時アルピナBMWのステアリングを握ったドライバーの顔ぶれもそうそうたるものであった。
N・ラウダ、J・ハント、H・シュトック、J・イクス、何らかの形でアルピナに携わったドライバーの名前を上げていくだけで、この時代のドライバー名鑑はいとも簡単に作れてしまうくらいだ。

73年はモンツァでもラウダ=アルピナが圧勝している。
珍しくホワイトボディのままだが、その後のオイルショックではまったくスポンサーが取れない状態となり、77年にはレース参戦もままならなくなってしまう。

アルピナが再びECTCを制したのは3年後の77年のことであった。しかしこの時、すでにモータースポーツの世界は一連のオイルショックによって冷え切っていた。
次々にサーキットから離れていくチームを横目に、優れた燃費効率と圧倒的な動力性能の高さでライバルを寄せつけなかったアルピナにも、転身を迫られる時が訪れたのである。

それはただ単にモータースポーツの世界が低迷を続けていたからという表面上の理由だけではなかった。
それが原因で発生したスポンサーの撤退で、もはやモータースポーツはビジネスとしてはなり得なくなったのである。

グループチャンピオンを獲得した77年を最後に、サーキットから姿を消した。

68年に初めてナンバー付きの02を持ち込んでから、ちょうど10シーズンを過ごしたサーキットに、ボーフェンジーペンは何の未練も感じなかったという。
なぜなら彼はこの時、まったく新しいアルピナの姿をすでに描いていたからである。
彼がレースシーンからの撤退と引き替えに手に入れようとしたもの。それはこれまでのBMWチューナーとしてのアルピナではなく、ドイツの自動車メーカーとして存在するアルピナの姿だったのだ。